今年6月9日に父が食道がんで亡くなり、その4日後に父が死んだ日。というブログを書きました。
そのブログ内で僕は「がん患者のひとつの選択肢である在宅緩和ケアについて医師に取材して、僕らの事例を客観的にまとめた記事を書きたい。それが物書きとしての最良の供養」と記しました。
書籍の執筆もやっと終わって一息つけたので、数カ月前に担当医に取材した内容をまとめたコラムを書きます。重たい話ですので、落ち着いた環境でお読みください。
在宅緩和ケアとは
皆さんは在宅緩和ケアという言葉をご存知ですか?
簡単に説明すると、がんなどの重い病気において、肉体的・精神的苦痛を和らげる処置を自宅で行うことを指します。
僕の父は、放射線治療の効果がほとんどなくなってきた今年5月下旬に、家族と医師と相談した結果、この「在宅緩和ケア」を選択することを家族皆で決めました。
正直に言うならば治療はもう諦めた上で、「最期を人間らしく迎えたい」と健康な時に言っていた父の希望を叶えるための苦渋の決断でした。
看護師は毎日、医師は2日に1回来てくれるローテーションで、5月31日から「在宅緩和ケア」がスタートしました。実家の居間にレンタルした介護用ベッドを設置して、看護師さんがいない時間帯は、僕と母の2人体制で介護をしました。
可動式の点滴スタンドをいわば杖のように使いながら、父はトイレにも自力で行ける状態でした。介護が2人体制ということもあり、自宅介護を始めて最初の数日はほとんど問題なく過ぎていきました。
その後、僕は仕事の都合で6月5日に東京に戻ったんですが、6月7日の夜に父の容態が急変。看護師が居ない状況下で、父がベッドの上で吐血する事態が起きました。
容態が急変しても救急車を呼ばないという覚悟
母は冷静に担当看護師に電話をして、家の鍵を開けた上で、看護師が到着するまでは父の傍に寄り添って、気道を確保し続けたそうです。
その後、近所に住む看護師がものの10分で到着し、応急処置をして父の容態は何とか持ちこたえました。
後日、担当医師にこの時の話を伺ったら「吐血時に救急車を呼ばなかったことが全て」と仰っていました。ここでパニクってしまうと、119番をしてしまう家族がいるそうです。
父を含めた家族みんなが、父が慣れ親しんだ自宅で人間らしく天寿を全うするのを望み、覚悟を持った上で最期を自宅で看取るという道を選択しました。容態急変時に母の取った行動は、父の尊厳を守る「英断」だったと思います。
半年前のブログでも書きましたが、父は吐血した翌日(最期の前日)、家族全員が見守る中で、体調を何とか持ち直して片言で「しんぶん」「めがね」と欲しいものを意思表示し、新聞を読んでいました。
最期の最期まで人間らしく生きるーー。
健康な時に言っていたことを有言実行した父の姿に、家族は皆、涙が止まりませんでした。
最期は家族全員に見守られながら、苦しむことなく逝きました。言葉は悪いですが、「幸せな逝き方」だったと思っています。
在宅死の確率は全国で10%以下
父が亡くなった後、「在宅緩和ケア」の担当医だった前野宏先生に取材させて頂きました。
北海道では在宅緩和ケアの先駆け的存在で、1993年から緩和ケアを始め、今まで2千人の患者を看取ってきたそうです。
先生の著書「教えて在宅緩和ケア」によると、「最期を自宅で迎えたいという人は6割いるのに、実際に在宅死を選べた人は全国で9%、北海道だと4%」ということ(これは2012年のデータで、現在はもう少し数字は上がっているとのこと)。
つまり僕の父のケースは、まだまだ日本では稀な例だそうです。
前野先生はこう仰ってました。
「長年、在宅緩和ケアの仕事をしていますが、がんの良いところは、少なくとも選択肢があるところ。治療する道もあるし、治療を敢えて選ばず、痛みを緩和するという選択もあります。家族にお別れを言う時間、色んなことを準備する時間もあります。残された時間の中で、患者さんと家族が希望通りの選択ができるように、その選択肢を増やすための仕事を私はしています。20年以上この仕事をしてきて思うのは、仮に自分の死に方を選べるならば、事故で死んだり脳梗塞で死んだりするより、私はがんで死にたい」
父にがんの宣告がされたのが昨秋。約9カ月間の闘病生活で、僕ら家族は様々なことを学びました。不治の病と言われるがんとどう向き合うか。それぞれの家族にそれぞれの答えがあるかと思いますが、ひとつの具体例として参考になれば幸甚です。
—-
村上アシシのプロフィールはこちら。